常陸国伊佐荘中村(現在:茨城県筑西市中舘)は、伊達氏のご先祖の地といわれています。
「常陸朝宗会」(ひたちともむねかい)は、この地域の歴史を学び、後世に伝えるとともに、親睦を図り、地域に貢献していこうという会です。
簡単に言えば、「みんなでこの地域を盛り上げて行こう!」という会です。
会には、「朝宗」という人物の名前が入っています。名前の由来となった常陸介「伊佐朝宗」(中村朝宗、常陸入道念西とも称した)は、平安から鎌倉時代にかけての武将で、ここ中舘にあった伊佐城の五代目城主でした。
文治五年〔1189年〕、朝宗と四人の息子(為宗、為重、資綱、為家)らは奥州征伐にて大手柄をたて、源頼朝から陸奥国伊達郡などの領地を拝領しました。
その後、本拠地である伊佐城を長男・為宗が継ぎ、朝宗は次男・為重(宗村)とともに伊達郡に移り住んで伊達氏を名乗り、仙台六十二万石 伊達家の祖となりました。
「常陸朝宗会」創立総会
私達は、伊達氏の故郷の地と言われているここ茨城県筑西市中舘に、「常陸朝宗会」を創立いたしました。
創立総会には大勢の皆様にお集まりいただき、ご来賓の方々からはお祝いのお言葉を賜り、誠に有り難うございました。
ご存じのように、中舘には觀音寺や伊佐城趾、八幡神社など伊佐氏や伊達氏にまつわる史跡がいくつも残っています。これらは、地域の宝といっても過言ではありません。私たちは、この地域の歴史を学び、後世に伝えて行くことが大切であると考えます。
筑西市は「伊達朝宗」がご縁で、令和7年2月2日に福島県伊達市と友好交流協定を締結します。
これを機に、ここ中舘に「常陸朝宗会」を創立いたします。
これから、みんなで協力し合って、いろんなことをやっていきたいと思います。
令和6年7月7日(日)
常陸朝宗会
伊達氏の故郷
(常陸国伊佐荘中村)から
中舘觀音寺(観音堂)
中舘觀音寺の正式な名称は、施無畏山延命院觀音寺(せむいざんえんめいいんかんのんじ)といい、天台宗のお寺です。
古来寺の伝えによれば、6世紀後期中国梁の時代に渡来した法輪独守居士(ほうりんどくしゅこじ)が、中舘の地に觀音菩薩像を安置したのが始まりとされています。現在の本尊は鎌倉時代に作られた延命観世音菩薩で、国の重要文化財となっています。
文治五年(1189)、源頼朝の奥州合戦の際、第五代伊佐城主伊佐朝宗は当山に武運を祈願すると、大願が成就され、その勲功により奥州伊達郡を拝領し伊達氏の祖となりました。
江戸初期に、当山は二度の大火に見舞われ、一山の堂塔全てを焼失してしまいますが、承応元年(1652)には当山第十八世厳海が、現在の觀音堂を再建しています。
伊達家や当地の領主等の觀音寺に対する尊崇の念は断えることなく、伊達綱村公は元禄十年(1697)、先祖三百五十回忌に当たり、仙台藩龍ヶ崎領(常陸国河内郡龍ヶ崎村)より五十石を永代御寄進され、吉村公、重村公は、参勤交代の帰途の折、行朝公供養塔に参詣され、狩野探幽の掛軸、螺鈿硯箱、香炉等を下賜されています。
伊佐城趾
平安時代の天永二年(1111)、藤原実宗は常陸介に任命されると常陸国伊佐荘中村に移り住み伊佐氏、あるいは中村氏を称したといわれています。当時、本拠地とした地名を名字とし、住地を転じた時はその地名を取って名字を変えたことは、鎌倉時代まで行われた風習でした。実宗は伊佐城を築城し、初代伊佐城主となりました。
文治五年(1189)、第五代伊佐城主伊佐朝宗は、奥州合戦の戦功により源頼朝から拝領した陸奥国伊達郡に移り住んで、伊達氏の祖となりました。
南北朝時代になると、伊佐氏は奥州の伊達行朝とともに北畠顕家の軍勢に加わり、南朝方として戦いましたが、北朝方の高師冬の軍に攻められて、康永二年(1343)伊佐城は落城し廃城になったと伝えられています。
現在の筑西市内には伊讃地区、伊讃美、伊佐山などの地名が見られます。
伊達宮内大輔行朝公塔
延元三年(1336)足利尊氏は武家政治の再興をめざし京に北朝を擁立して征夷大将軍になり、後醍醐天皇は吉野に追われ南北朝の争乱が起こりました。
興国四年(1343)奥州伊達郡赤館にあった伊達家7代当主伊達行朝は、一族の旧地である伊佐城に入り南朝方として戦いましたが、北朝方の高師冬の軍に敗れ伊佐城は陥落し廃城となってしまいました。行朝が北朝方に降った後、供養塔が觀音寺の境内に建立されました。
貞治三年(1364)、行朝の十七回忌法要が営まれてから、伊達家の先祖の追福と子孫の繁栄を願い、法華三昧の法要を厳修してきました。現在は11月23日に檀徒の供養とともに行われています。
令和六年度の「法華三昧会」の様子は、(法華三昧会)のページを開いて見て下さい。
法輪獨守居士の墓
中国梁より渡来した法輪獨守居士(ほうりんどくしゅこじ)の墓は、中舘觀音寺(觀音堂)の西側の畑の中にあります。
確か、雨引観音(雨引山楽法寺)の縁起にも法輪獨守居士が登場したと思います。
中舘觀音は天台宗、雨引觀音は真言宗と宗派は違いますが、何か関連があるのかもしれません。しかも、どちらのお寺の境内にも延命水があります。
更に不思議なことにこの二つの寺は北緯36°19′の同緯度上にあり、それらは直線距離で3里程です。
まるで双子みたいなお寺ですね。
(ほんと、不思議です)
延命水
古来寺の伝えによれば、中舘觀音寺は用明天皇の時代(580年頃)に中国梁より渡来した法輪獨守居士(ほうりんどくしゅこじ)が仏像を背負って有縁の地を求め各所を遍歴していたところ、筑波連峰を一望に清流の調べ豊かな中舘の台地に觀音菩薩像を安置したのが始まりとされています。
当時この地方では悪疫が流行していましたが、法輪獨守居士が悪疫退散の祈願をしたところ、不思議にも觀音寺の崖下から清泉が怫然として沸き出で、この水を飲む者はたちまち悪疫が治ったと言われています。
また、646年には時の左大臣阿部倉梯(あべのくらはし)の姫君の熱病を平癒するなど、あらたかな霊験があったことから、孝徳天皇より「延命」という称を賜ったと伝えられています。
現在の延命水は、飲料に適さないようです。
五行川(勤行川 )
筑西市をゆっくりと流れる五行川(勤行川 )があります。この川に沿って勤行川緑地公園が整備され、茨城百景(中舘觀音寺と勤行川)にも指定されています。
新春には消防出初式、春には勤行川桜堤に桜が咲き誇り、夏には下館祇園まつりの川渡御が、そして秋にはサケの遡上を見ることができる一級河川です。
ところが、実際に川辺を歩くと、五行川と勤行川と二つの表記があることに気がつきます。
五行川の名前の由来は、弘法大師が栃木県芳賀町の手彦子淵で水垢離をとり「聖行,梵行、天行、嬰児行、病行」の五行を修めたからだと言われており、勤行川の名前の由来は、觀音寺の僧が、法華三昧の時にこの川で水垢離をとり勤行を行っていたからだと言われています。
ちなみに、この川を「勤行川」と表記するのは茨城県(筑西市)側だけで、栃木県では「五行川」と表記しているようです。
中舘八幡神社(諏訪・八幡神社)
この八幡神社は、伊佐朝宗が常陸介として第五代伊佐城主になった時に守護神として諏訪・八幡両社を祀ったのが始まりだそうです。
文治五年(1189)7月、奥州合戦に出陣する際に朝宗と四人の息子(為宗、為重、資綱、為家)らは、この神社に戦勝を祈願し、見事に勝利したそうです。
この神社にお参りすると、ご利益がありそうですね!
毎年境内では、大門桜まつりや祇園祭り、風神祭などが行われます。
御神木の檜
中舘八幡神社の裏手に祀られています。
文治五年(1189)7月、伊佐朝宗と四人の息子(為宗、為重、資綱、為家)らが奥州合戦に出陣する際に、戦勝を祈願して植えた檜が根付いたものだそうです。
元文元年(1736)5月、伊達家二十一代当主伊達吉村公がこの地に来られた時にも氏神である諏訪・八幡両社を参拝し、この檜をご覧になったそうです。
明治時代に火災により焼失し、現在は焼け残った檜が祀られています。
万蔵桜(まんぞうざくら)
中舘八幡神社境内にあります。
(故)中澤万蔵氏が戦後自宅の傍に植えた2本の桜のうちの1本です。当時、この桜は道路の際に生えていましたが、30年前の区画整理事業で境内のちょうど中央に位置が変わりました。
それからは、ここに太く根を張り、大きく枝を伸ばしています。尚、もう1本の桜は、区画整理事業で伐採されてしまいましたが、子供会で新たに枝垂桜が植えられました。毎年、春になると万蔵桜や枝垂桜がキレイに咲きほこります。
ソメイヨシノ
直径 約95cm
幹回り 約300cm
樹齢 約80年
五所神社(郷社五所神社)
五所神社の創建は、奈良時代の養老六年(722)に勧請したのが始まりと伝えられています。
文治五年(1189)の奥州合戦で大功があった伊佐朝宗とその子為宗・為重(宗村)・資綱・為家らは、伊達郡(福島県)・豊田郡(常総市)・小栗荘を与えられました。朝宗と為重・為家の父子は伊達郡に移り、仙台伊達家の祖となりました。
為宗・資綱は本拠地である中舘の伊佐城に残り、伊佐氏を名乗って五所神社を伊佐荘三十三郷の総鎮守としました。
江戸時代に入ると、幕府から庇護され社領三石を安堵されていました。当初は神仏混合で別当に満願寺が当たっていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により神社として独立しました。
社宝や記録などは満願寺が引き継ぎましたが、明治二十二年(1889)の火事により焼失しています。
筑西市五所宮1-2
郷社五所神社
觀音寺大欅
中舘觀音寺の本堂(客殿)の裏手に大欅が堂々とそびえ立っています。
この樹は、数百年に亘りこの地を見守っています。
欅(けやき)
幹回り 約 6m
樹高 約25m
推定樹齢 500~600年
筑西市指定文化財
(天然記念物)
市指定文化財 史跡 等覚院供養塔
(藤原高房の墓の伝承)
藤原高房〔延暦十四年(795)~仁寿二年(852)〕は、平安時代前期の藤原北家魚名流の出身の公卿であり、中納言まで昇進しましたが、藤原時平の讒言(ざんげん)によって菅原道真とともに失脚、高房は常陸国に流され同地で没したという話が伝わっています。
これらの伝承に基づき、高房の墓とされる大小の五輪塔群が觀音寺下寺天台宗等覚院の廃寺跡にあります。
高房の六代後の子孫である藤原実宗は、天永二年(1111)常陸介として常陸国伊佐荘中村に移り住み、そこに伊佐城を築き、初代伊佐城主となった人物です。
そして、その第五代伊佐城主が伊達氏の祖となった伊佐朝宗です。
高房の五輪塔と並んで朝宗が仕えた源頼朝の供養塔も建てられています。
供養塔の前には、「伊達氏供養塔」と書かれた碑が立っています。
筑西市泉地内
觀音寺下寺天台宗等覚院廃寺跡
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常陸國真壁郡伊佐荘中村
茨城縣真壁郡中村大字中舘
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